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清冽

 韓国語ラジオテキスト12月号を買いに行った。書店の棚はあいかわらず嫌中・嫌韓本のラッシュである。いったい、飽きないのだろうか? 中毒症状に陥っているらしい。
 
 ついでに、能勢博『山に登る前に読む本』(講談社ブルーバックス)と、後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中公文庫)を買った。
 
 茨木のり子の詩は数編読んでいる。「清冽」という形容は当っていると思う。しかし「勁悍」という形容も当りそうだ。並外れた強さを感じさせる。優しい女性には惹かれるが強い女性は苦手だ。そもそも向こうが相手にしてくれない。いい詩だ、と感情移入してもはじき飛ばされそうな気がする。それで敬遠していたわけだが、「評伝」ならはじき飛ばされもしないだろう。
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清水邦夫 『火のようにさみしい姉がいて』

 昔、清水邦夫、別役実らの不条理劇が流行った。私は民芸や俳優座が好きだったから、そういう芝居はあまり見ていない。見たのは別役の『マッチ売りの少女』くらいか。吉行和子が出ていた。やはり、わけのわからない芝居だった。
 
 清水邦夫の『火のようにさみしい姉がいて』は題名に惹かれるものがあった。しかし、「火のように」と「さみしい」は背反することばである。わけのわからない芝居だろうと敬遠した。
 
 昨日、たまたまチケットを貰ったので観に行った。
 
 わけがわからないといえばわからない。わかるといえばわかる。しかしわかったことを説明しようとすると膨大なことばを要し、かつ、それがとんだ読み違いだった、ということになりかねない。そういう芝居だった。
 
 「火のようにさみしい姉」を大竹しのぶが演じたのだが、一幕の間、理髪店の女店主が大竹しのぶとは気づかなかった。図太い陰気な声で、ずいぶん力量のある脇役だなぁ、と思わせた。二幕になって「姉」として出て来てはじめて大竹だとわかった。騙しおおせたということはそれだけ演技力があるということなのだろう。私の鈍感さを差し引いても。
 
 大竹しのぶといえば「野麦峠」という印象しかなかったが、ずいぶん力をつけたものだ。というより奥行きのあるほんとうの女優になっていた。
 
 人生も感じさせたし、時代も感じさせた。

山中の隠れ家

 ある人が、檀一雄『石川五右衛門』の「おこん」もいい女だというので読んでみた。夜盗団の女頭目、妖艶な二十二歳、たしかにいい女だが、どこかやり手マダムのような気もする。それに比べるとおりょうはうぶなホステスのようで可愛い、ま、好みは人それぞれだ。
 
 おりょうは小谷落城の落ち武者を助ける。おこんは三方ヶ原戦の五右衛門を誘惑する。そして、どちらも山中の、“囲炉裏が切られ、ソダ火が燃え、自在鉤が吊られ”た隠れ家に男を連れて行く。そこでロマンが始まる。
 
 映画『柳生武芸帳』でも三船敏郎と久我美子がそういう“囲炉裏が切られ、ソダ火が燃え、自在鉤が吊られ”た小屋に隠れ住むシーンがあった。三船が渓流に立ち込んでヤスで岩魚を突き、久我が優雅な手つきで木の実を摘み取っていた。
 
 みんな絵空事と解っているが、いっとき現実から逃れるには格好の世界だ。「ウォールデン」や「方丈」も、私の場合はそのようなものでしかなかった。
 
 
 石川五右衛門や弓削の道鏡、由井正雪は『車輪眼』だったとある。
 
“千年をにらむような人の目になると、目前の世相をにらむ目が一つ、千年の大きな時間をにらんでいる目がもう一つ、つまり同じ黒眼は一つでも、二つの黒眼が同時に一尺先と一万尺先とをにらみまわしている、はたからは奥深く見られるもので、これを仏眼、または車輪眼などと呼んで尊びおそれたものであろう”
 
 「一尺先と一万尺先」いい言葉だ。身の丈に合わせて、十尺先、百尺先、千尺先、と読み替えてもいい。
 
 十尺先、例えば十年先。残念ながら、いまの家が「更地」になっている光景しか見えない。これが俺の身の丈だ。それでいい。
 
 しかし、政治家はそれでは駄目だろう。改憲に逆上せ上がっている人たち。一尺先の勝利が百尺先の敗北に逆転することがわからないのだろうか。

山田太一・作 『日本の面影』

 松江・熊本・東京での小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を追っている。舞台は各地での八雲宅、登場人物は八雲一家と学校関係者たち、草刈正雄の小泉八雲、紺野美沙子の小泉セツ、どちらも解りやすい役作りだった。
 
 ストーリー展開もシンプルで解りやすい。古き美しき日本が廃っていき、傲慢醜悪な近代日本に変わっていく。それを嘆きながら、ハーンはセツに抱かれて死んでいく。九月、庭の桜が狂い咲きしていたそうだ。いい芝居だった。
 
 歴史には光と影がある。ハーンの愛した古き日本にも負の部分がある。日本は封建制の陋習貧困から脱しなければならない、近代化つまり資本主義化、帝国主義化は必然かつ必要と熊本五高の英語教師に言わせている。簡単に割り切らずに立ち止まって考えることが必要なのだろう。いまは、常にそうだが特にいまは、立ち止まって考えることが必要な時代だ。しかし、立ち止まれずにあれよあれよと流されているのが実情だ。
 
 小泉八雲の世界を解りやすく紹介するためだろう、「雪女」や「耳なし芳一」の話を芝居に取り入れていた。それはいいとして、『古事記』のイザナミ・イザナギの話まで取り入れていた。慎重であって欲しかったと思う。「日本を取り戻す」という場合の日本が、古事記の日本、靖国の日本を指しているらしいからだ。少なくとも、『逝きし世の面影』の日本ではなさそうだ。
 
 『ラフカディオ・ハーンの耳』という本を少し読んだままにしていたのを思い出した。「同時代ライブラリー」だったか、本棚をひっくり返して読み返さなければならない。「君が代」と「万歳師」についての考察があったはずだ。漫才ではない、万歳の方だ。君が代について面白いことが書いてあった。
 
                 兵庫県立芸術文化センター 2014/06/21

井上靖 『戦国無頼』

 JRの「大回り乗車」を試してみた。一区間乗車券で、大阪から琵琶湖一周、草津から柘植、奈良、高田、和歌山を経て大阪に戻って来られる。今日はそのコースの半分、和歌山巡りは省略して奈良から大阪に戻った。それでも半日かかった。
 
 琵琶湖は好きだが、まるまる一周、景色がいいわけではない。いいのは小松から塩津まで、竹生島を望む湖北辺りだけだった。
 
 井上靖の『戦国無頼』を思い出した。
 
 小学生の頃だったか、寝そべっているとラジオドラマが耳に入ってきた。戦国時代、籠城戦らしい、侍二人の台詞、「済まんな」、「済まん? 何が済まん」。ふ~ん、侍というのはこういう話しぶりをするのかと思った。
 
 それからいくらか経って、寝転んでいると又々そのドラマが聞こえてきた。戦が終わった夜らしい。「おりょうのこの世のものとも思えない美しさ」というナレーションが心に残った。「おりょう」という女性がこの物語のヒロインらしい。そのヒロインを逃がすために、一人の侍が死んでいく。戦国ロマンの、これが最終回らしかった。
 
 高校生の頃、井上靖の『戦国無頼』を読んだ。「済まんな」、「済まん? 何が済まん」という台詞が出てきた。昔聞いたラジオドラマはこれだったのか、結末まで読んで確認し、非常な懐かしさを感じもし、新たに感動もした。安っぽいメロドラマといえばそれまでだが。
 
「この世のものとも思えない美しさ」の「おりょう」というヒロインも好きになった。盗賊の一員で、野性的かつ純真無垢、抜けるように色の白い美女で、スプリンター並の俊足の持ち主。そんな女、お伽噺の世界にしかいない。つまり、男にとってのある種の理想形あるいは願望形である。雑誌か何かで見た岩田専太郎の挿絵からあれこれ想像してイメージを組み立てたりしていた。
 
 高校生の頃の愛読書のひとつ、私の小説鑑賞のレベルはそんなものだ。
 
 何年か前、古書店で映画『戦国無頼』のビデオを見かけた。おりょう役は山口淑子。三船敏郎や三国連太郎、志村喬も出ていた。値段は千五百円。迷ったが買わなかった。

大西巨人 『三位一体の神話』

 大西巨人の『神聖喜劇』と高橋和巳の『邪宗門』は戦後日本文学の双璧だろう。無論これには私の読んだうちでは、という前提がつく。大江健三郎の作品は最後まで読み通せず、村上春樹は最初から読む気になれない。その程度の鑑賞力と読書量での話である。
 
 ある作家が、『邪宗門』は観念的な大衆小説にすぎない、と酷評していた。言い得て妙である。『邪宗門』に傾倒する私は「観念的な大衆」ということになる。これは認めざるを得ない。
 
 『神聖喜劇』と『邪宗門』、ホントに対照的な作品だ。
 
 『神聖喜劇』 衒学的 男性的 硬派的 友情ロマン 日本陸軍 哄笑
 『邪宗門』   観念的 女性的 軟派的 愛情ロマン 教派神道 悲哀
 
 対照的だが通底するものがある。「精神性」と「庶民性」だ。
 
 姜尚中氏が、「学生には、『邪宗門』と『神聖喜劇』を読んだかどうか尋ねることにしている。」とどこかに書いていた。これは嬉しかった。姜氏も二作品をある意味での「双璧」とみていたわけである。姜尚中ならそう思うだろうな、俺と同類だな、俺の読書力も捨てたものじゃないな、と思った。
 
 大西巨人が『三位一体の神話』という「推理小説」を書いたことは知っていた。読もうと思わなかったのは、作家同士の確執とか、完全犯罪とかのフレーズが気に入らなかったからである。中身が軽いような気がした。しかし左平次さんのブログで読んでみる気になった。
 
 作家同士の確執とは大西巨人と井上光晴のことだそうだ。井上光晴の作品は『地の群れ』一作だけ読んだ。その前に映画『地の群れ』を観ている。『神聖喜劇』の作者と『地の群れ』の作者にどういう確執があったのか、これは読まずにはおれない。
 
 読んだ。 ふ~ん。ここまで書くかねぇ・・・。
 井上光晴のことをもっと調べてみないと・・・。
 
 小説の本筋と離れて、別の収穫があった。
 
 大西巨人の分身たる登場人物は『万葉集』1415番の歌が好きだそうだ。
 
 玉梓の 妹は珠かも あしひきの 清き山辺に 蒔けば散りぬる
 
 
 この歌の「蒔けば散りぬる」を「散骨」と解釈するのがほぼ定説になっているそうだ。しかし折口信夫は微妙である。『三位一体の神話』から抜き書きすると、
 
“のち(1926年)に『餓鬼阿弥蘇生譚』で、「日本の風葬も奈良以前のものは、必ずしも火葬の後、灰を撒いたとも、きまらぬ様である。『まく』と言ふ語は、灰を撒く事に聯想が傾くが、恐らく葬送して罷らせる意であったものが(任く[まく]の一分化)骨を散葬した事実と結びついて、撒くの義を含む事になったのであらう。」と論じ、『万葉集』の前出「1405」および「1415」などは、「風葬とも限られない」と述べた。”
 
 散骨、風葬かどうか、留保しておいた方がよさそうだ。
 
 歌の原文は以下の通りである。

 玉梓能 妹者珠氈  足氷木乃 清山辺  蒔散□     (1415)
 
 玉梓之 妹者花可毛 足日木乃 此山影尓 麻気者失留   (1416)
 
 私の関心は歌の解釈・鑑賞以前の、語句の問題にある。歌の中にある、「玉梓」(たまずさ)と「足氷木(足日木)」(あしひき)、いわゆる「枕詞」である。
 
 [足引乃]は山にかかる枕詞とされている。なぜ足引か? 山に登れば疲れて足を引きずるから、という解釈があることはよく知られている。しかし、そうかな? そもそも「あしひき」と読んでいいかどうかが問題なのである。
 
 さて、気分転換にYouTubeで千早大夫と竜田川の噺でも聴くとするか。

「暴支嘲弄」

 朝、「モーニング・バード」というワイドショーにチャンネルを合わせると、ちょうど中国のマンホール事故の映像が流れていた。事故が起こったというのではなく、こういう類の事故が多いというのがテーマらしい。中国の後進性、未熟さ、幼稚さ等をコメンテーターらは楽しんでいた。視聴者も楽しんだことだろう。
 
 すぐに電源を切った。近頃、こういうのが多い。
 
 「朝日」も落ちたものだ。というより、戦前の朝日に戻ったようだ。朝日だけの問題ではない。マスメディアが戦前のメディアに戻りつつある。戦前の日本を取り戻す、その露払いをしているようだ。
 
 「暴支膺懲」「呆支嘲弄」。今後、勇ましいコメンテーター、論客が増え、街には旭日旗掲げたヘイトスピーカーが繰り出すことだろう。
 
 地球温暖化と同じく、回避の手立てを知りながら回避できない、それが戦争というものらしい。

『ゴジラ』

“「愛の賛歌」
 切符を貰ったので、フェスティバルホールで『美輪明宏版「愛の賛歌」』を観た。
 
 脚本・演出・美術・主演が三輪、手を広げすぎだと思うが(それとも節約かな?)、メロドラマとしてはよく仕上がっていた。また、「愛の賛歌」も三輪流に見事に歌い上げていた。やはり才能のある人なんだな。スタンディングオーベイションはそんなにあるものではない。三輪ファンにとっては最高の舞台だったろう。
 
 しかし私は三輪ファンではない。たとえば岩崎宏美ならピアフをどう演じ、どう歌うだろう、それなら自分で切符買って観るかもしれないな、と考えたりした。
 
 それにしても三輪さん、息が長いなぁ。「ひとつの時代」がまだ続いている。
 もしかすると息長氏の末裔かな?
 
 芝居のあと、ジュンク堂に寄ってみた。相変わらず反中・嫌韓本が多い。触れる気にもならない。諸岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書)一冊だけ買い、歴史書コーナーに寄るのは我慢した。
 
 韓国フェリーの沈没で、韓国人は「俺たちは三流国家だった」と落ち込んでいる、日本人は「彼奴らは三流国家だ」と喜んでいる。「三流国家」Vs「とてつもない日本」「美しい国」、対照的だ。これから日本はその美しさの度合いを増していくだろう。”
 


 以上の内容をさるところにアップし、喫茶店でコーヒーを飲みながら昨日買った『ヘイト・スピーチとは何か』を読み、帰宅してNHKアーカイブズ「ゴジラ」を見ようとテレビをつけると民放が「神戸祭り」を放送していて、ちょうど兵庫朝鮮学園が行進しているところだった。小さなシンクロニシティだ。
 
 『ゴジラ』を観たのは小学校三年の時、強烈な映像だった。夢にも見た。寝ていて気付くと屋根の窓がぽっかりと開いていて、ゴジラが爛々と目を光らせてこちらに向かって来た。何の物音もしない。身動き出来ない。動けないはずなのに家の前の道路に這いつくばり、逃げようともがいていた。ほんとうに怖かった。
 
 『ゴジラ』に『笛吹童子』、昭和29年は私のノスタルジーの原点である。
 
 昭和29年は事件の多い年でもあった。ビキニの水爆実験、第五福竜丸被爆、無線長久保山さん、黄変米騒動、洞爺丸沈没。子供ながらも世の中にも目を向け始めた年でもあった。

島倉千代子「愛のさざなみ」

 1968年、北九州の小さな喫茶店でこの曲を聴いた。ソ連のチェコ侵攻の翌日だったかと思う。ある種の活動に行き詰まって、鄙びた喫茶店で途方に暮れていると、この曲が流れてきた。
 
 不思議に気分が落ち着いてきた。今風に言えば「癒された気分」になれた。島倉千代子の歌には多分にそういう効果がある。そのなかでもこの曲はとりわけ優しい。島倉千代子は年の離れた姉か従姉妹のような優しさを感じさせる。




朝鮮語学び直し

 ラジオでNHKの韓国語講座を聴いている。昔、習ったが身を入れて勉強しなかった。そのツケがいま来ている。
 
 基本の基を完全に忘れていた。
 
 「ウ」と「イ」の合成母音の「ウィ」の発音である。
 
 1、語頭に来る場合は「ウィ」と二音節で発音する。
 2、「何々の」という意味で使われるときは「エ」と発音する。
 3、その他の場合は「イ」と発音する。
 
 これが規則である。しかし、2以外の場合は「ウィ」でも「イ」でもどちらでもいいと思い込んでいた。そう思い込んでいても実害はなかった。もともと私は発音不明瞭である。「ウィ」と発音すべきところを「イ」と発音しても、「イ」と発音すべきところを「ウィ」と発音しても聞く方には同じに聞こえたのかもしれない。
 
 
 日本の古代史や古代語の研究には朝鮮語の知識が必須である。しかし、頭では解っていても地道な朝鮮語の学習にまでは手が回らないものだ。私も今まで放置していた。いま大慌てで勉強し直している。
プロフィール

Author:kitora777
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